新型コロナウイルスの影響でまだまだ予断を許さない日々が続いていますが、この様な事態もいつか必ず終息を迎えるでしょう。しかしこの新型コロナウイルスは、人々の普段の暮らしに大きな打撃を与えました。この後、人々の生活はどうなっていくのでしょうか。そして我々デザイナーやクリエーター、ものづくりの現場にも何らかの変化が起こるのでしょうか。そんなことを考えながら自分自身のことを少し振り返ってみようと思います。
1986年。まさにバブル時代の幕開けの年でした。この年、私は地方の大学を出て上京しました。当てはありませんでしたが、とにかく東京に行けば何とかなるだろうと思っていました。今考えると大胆不敵というか、かなり甘い考えではありましたが、世の中に勢いがあったので、あまり不安にならずに済んだのではないかと思います。
上京してまず始めにしたことは、適当な場所にある電話ボックスに入ることでした。そこにあった電話帳で倉俣史朗事務所を調べ、電話をかけると、なんとその日のうちに倉俣史朗さんが会ってくださることになりました。すぐに事務所を訪ねたのですが、あの時の経験は今でもキラキラとした思い出として残っています。
倉俣さんは、非常に優しく穏やかな方でした。お会いしてすぐに、私が在学中にまとめた作品集をお見せすると、ひとつずつ丁寧に見てくださり、いくつかの感想を述べた後、「レモネード飲む?」と、冷蔵庫からよく冷えたレモネードを出してくださいました。一緒にご自身の新作家具の写真を持ってこられました。それは「ソラリス」と名付けられた、4本の長い脚で支えられたキャビネットが海の上に佇んでいる写真でした。とても嬉しそうに見せてくださるので、何かまるで作品の見せ合いっこしているような感じがして、なんとも不思議な気がしました。
その後も、茶室の話や映画の話など色々な話をしていただきました。中でも映画監督アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」の話は印象的でした。そう、まさに新作のキャビネットに名付けられたソラリスです。これは後ほど知った話ですが、倉俣さんは惑星ソラリスの中で宇宙船の中を白い馬が駆け巡るシーンが最も気に入っているということでしたが、実際映画の中にそんなシーンはありません。映画の中で勝手に自分だけの場面を作り上げていたのです。本当に不思議な方でした。
結局入社は叶いませんでしたが、スタッフの一人と仲良くなり、しばらくの間アルバイトをすることになりました。乃木坂に「ルッキーノバー」の設計が計画されていて、そのスタッフは、新しいテーブルの開発を任されていました。それは当時の技術としては最先端の発光ダイオードと透明伝導性フイルムを組み合わせたもので、今で言うLEDと液晶フイルムのようなものを利用したものです。私はそのテーブルトップの組み立てを手伝いました。そして組み上がったテーブルは、これまでに見たことのない驚きと美しさに満ちたものでした。円形のガラステーブルの中に小さな赤い光の粒が浮遊しているのです。そのテーブルの下に潜り込んで見上げながらニコニコしていた倉俣さんの顔が今も忘れられません。
それからしばらくしてスーパーポテトを訪ねました。杉本貴志さんにお会いした途端、持っていった作品集もろくに見ず、いきなり「お前こんな時期まで何をしていたんだ」と言われました。確かにもう4月に差しかかろうとしていたので当たり前です。つい口が滑り、倉俣事務所でアルバイトしていたことを話すと、杉本さんの目がかっと見開いて、「俺たちは世界を目指しているんだ!」「デザイナーになるためには10年かかるぞ」と、なぜか一喝されました。その頃のスーパーポテトは、猫の手も借りたい程忙しかったのでしょう。すんなり入社することができてしまいました。その頃入社したスタッフは私を含めて5人でしたが、私が在籍していた時に知る限りでは、新規でそれほどの人数が入社したことはなかったので、よっぽど人手が足りなかったのだと思います。
入社してからは、毎日徹夜か、仮に家に帰れたとしても終電、という生活が始まりました。当時はバブル真っ只中でしたが、仕事以外のことをする時間はほとんどありませんでした。当時話題だった「ジュリアナ」や「ゴールド」などに一度ぐらい行ってみたかったのですが、結局それも行かずじまいでした。その頃、杉本さんは公私共に非常に忙しく、出張、打ち合わせ、ゴルフ、会食、旅行、その他いろいろな趣味を全てこなしていたので、事務所にはほとんどいませんでしたが、時々夜中に事務所に戻ってきては、進行中のプロジェクトのデザインを全て覆し、やり直しを命じる。そして我々は徹夜となり、その徹夜の最中に今度は「銀座でタクシーが捕まらない」と連絡が入ると、杉本さんの愛車フェラーリで迎えに行き、徹夜で変更したデザインを見るや、やっぱり元のデザインに戻そうというようなことが日々繰り返されていました。まさに私はバブル期のダークサイドにいたのです。
しかしこれだけ理不尽なことが続くと鍛えられます。杉本さんが納得できるデザインとは何かを、毎日考え続けていました。そしてある時、「赤坂春秋」という物件を担当することになったのです。これは当時、杉本さんをはじめ意識の高い人や企業が出資し合って、自分たちの納得のできる高級なクラブハウスのような店を作ろうという計画でした。高級と言っても決してきらびやかなものではなく、本物の中の本物を作ろう、というものでした。更に、日本の真髄を極めたいという想いもあって、陶芸界の巨匠、辻晴明さんとコラボレーションすることになりました。このような目的の物件だったので、準備の時間もたっぷりとかけられました。私はその間、机上のデザイン作業はほとんどせず、あちこち出歩いていました。特に辻さんが日本の伝統技術を持つ様々な職人さんたちを紹介してくれたので、左官職人や宮大工の元に何度も足を運んで打ち合わせを重ねました。それと同時に、古木や流木、自然の石などをいろいろな場所に探しに行ったりしながら、その店は作られていきました。
遂に完成したその店は力強く、作為を感じさせない無為自然的なものでした。その時私は、デザインとは何かということを、初めて身体的に理解ができた気がしました。それまでの私はデザインを考える時、アイデアを頭の中からひねり出すようなやり方しかしてこなかったので、すぐにネタ切れになり、その先になかなか進めないことがよくありました。しかしこの赤坂春秋を体験して以来、デザインをすることがとても楽になり、アイデアも自然に出るようになりました。何よりも杉本さんの伝えたいことや考え方を普通に理解できるような気がしてきました。デザインとは自分一人だけで行うものではなく、様々な事象を引き寄せて、受け入れて、咀嚼をすることによって生み出されていくものだということを肌で感じることができたのです。
そんな思いに至ることができたのも、様々な技術とこだわりを持った職人さんたちの出会いに寄るところが非常に大きかったと思います。
いまだにいろいろな職人さんやものづくりの人たちとの付き合いは深く、何かあるとすぐに相談します。これを私は“超他力本願主義”と言っていますが、アイデアがモヤモヤした状態でもそういう人たちと話をするといろいろな提案を受け、こちらも更なるアイデアをぶつけながらお互いに刺激をし合って新しいデザインが作り上げられていくことがよくあります。
デザイナーはどんどん人に頼っていいと思います。頼るということは結果的に刺激し合うことになり、デザインの幅も広がっていくのではないでしょうか。どんなに頼っても最終的に決めるのは自分なので、そこに個性は出ます。デザインを生み出すために必要なのは、コミュニケーションです。そしてそのデザインが新しいコミュニケーションを作り出します。振り返ってみると、今の自分の基礎は赤坂春秋を体験した時に作られたような気がします。
そんなわけで、こんな時代に何か人の役に立ちそうなことを書こうと思ったのですが、単なる思い出話になってしまいました。その後私は、バブルが崩壊して間もない不況の嵐が吹き荒れる1996年に独立をするのでした。続きはまたいずれ。
(はしもと・ゆきお)
橋本夕紀夫/橋本夕紀夫デザインスタジオ。1962年生まれ。86年愛知県立芸術大学デザイン学科卒業。㈱スーパーポテトを経て、96年独立。昭和女子大学・早稲田芸術学校・非常勤講師。
主な作品に、音音(新宿)、BEAMS HOUSE(丸の内)、ビルボードライブ東京(六本木)、ザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、故宮晶華(台湾・台北)、ヒルトンニセコビレッジ(ニセコ)、スーパークラフトツリー(東京スカイツリー4F)、インターコンチネンタル大阪(大阪)、ROZILLA(新三田)、東急ハーヴェストクラブ京都鷹峯&VIALA(京都)、コンラッド大阪(NDSと協働、大阪)、軽井沢プリンスホテルイースト改装(軽井沢)、ハイアットリージェンシ- 瀬良垣アイランド 沖縄(沖縄)、鮨武蔵by AMAN(東京)、ANAインターコンチネンタルホテル別府リゾート&スパ(別府)他多数。
JCD優秀賞、第16回タカシマヤ美術賞、IIDA Award of Distinction他受賞多数。2009年4月商店建築社より「デザイナーショーケースVol.1 Yukio Hashimoto」、2013年12月六耀社より「LEDと曲げわっぱ―進化する伝統デザイン」刊行。